建築家

建築家でもあった ミケランジェロ

建築家(けんちくか、architect)は、一般的に建築における建物の設計や工事の監理などを職業とする専門家のことである。

建築を実践することは、建物の設計や建物を取り巻く敷地内の空間で、人間の占有や使用を主目的としたサービスを提供することを意味する。語源学的に、建築家はラテンのarchitectusから派生している。更にそれは、ギリシャ語のチーフ建設者(arkhi- 、チーフ + tekton、建設者)から派生している。[1]建築家建築の作者のタイトルであり、都市環境、建築物、および屋内外の環境を計画および設計する職である。

専門的には、建築家の決定は公共の安全に影響するため、建築を業とするためのライセンスを得るためには実践的な経験が必要であるが、高度な教育と実務 (またはインターンシップ)すなわち建築家になるための実践的、技術的、学問的要件は、国地域によって異なる(下記参照)。

起源

古くから中世の歴史を通して、多くの建築設計建設は、石造りの石工大工のような職人によって行われ、マスタービルダーの役割を果たしていた。現代まで、建築家と建築エンジニアの間に明確な区別は無かった。ヨーロッパでは、タイトルの建築家とエンジニアは主に同じ人物を指す地理的なバリエーションであり、しばしば同じ意味で使用されていた[2][3]古代 ギリシャではこの称号は重要な建物の設計と施工両方に責任を負う人物を指しており、そうした人物は美学と建築の両方に精通しており、建築現場での作業を指示し、建築資材の供給などを手がけていた。そこからデザイン理論が分野に発展し、建築家がますます全体的計画までに取り組んで、多かれ少なかれ現代までに至っている。

置物、歴史の上では最初の建築家として知られている。c。2650-2600. 古代エジプト.

技術数学の様々な開発が、実践的な職人とは別のプロの「紳士」たる建築家の発展を可能にしたことが示唆されている。設計図を紙に書くことは、ヨーロッパでは15世紀までは行われていなかったが、16世紀に入ると徐々に紙が使われるようになった。西暦1600年までには設計図における鉛筆の利用も増えていった。紙と鉛筆が利用可能になったことで、建設前の図面は専門家によって作成されるようになった。同時に、2次元の3次元建物を記述するための異なる投影法の使用や、寸法精度の理解の向上など、線形の視点や技術革新の導入は、建築設計者がアイデアを伝えるのを補助してきた。しかし、開発は徐々に進んでいた。18世紀まで、建築物は高水準のプロジェクトを除いて職人によって設計され、設定され続けた。[4] 建築家を旧来の構成のもとに位置付ける向きが確立するのは17世紀頃で、以降建築あるいは芸術のアカデミーを設立してその会員として建築家を推挙する制度ができるが、これが芸術家としての確立である。1671年に創設されたフランス建築アカデミーが最初である[5]

フィリッポ・ブルネレスキは、歴史上最も創造的で才能のある建築家の一人として賞賛されている。 [6]
語源
ラテン語 architectusの東ギリシア古代ἀρχιτέκτων(architekton)、文字通りの仕事の頭すなわち長としての建築者がから来ている。したがってこの単語はギリシャ語の archostectonの合併といえる。 Archosを読み取ることができる接頭辞である マイスターまたは親方(司教 ärkebiskopや大敵 ärkefiendeと同じ)、そして Tekton大工やビルダーを意味する。このように、建築家は 建築芸術または 上部構造の達人を意味すると言うことができる。
ヨーロッパ諸国の場合

古代ギリシャローマでは、建築術をはじめ土木技術、造兵技術、機械技術を含んだ「大技術者」、いうなればクラフトマン(工匠)で「大工」という意味であった。中世ヨーロッパ大聖堂を築いた工匠は存在しても、建築技術者は一般に職人と見られていた。

12世紀以前には修道院教会の建築は、歴史的建築物や測量に造詣のある修道士が行っていたが、建築物の複雑化などから、11世紀半ばには建築主の要望を聞き、測量して図面を引く建築の専門家に委託する例が現れるようになった。優れた建築家は賛美される反面、他の地に同じような建物を建てられることを嫌った建築主に処刑されることもあった。故に初期ゴシック期の建築では、建築家が名声を得ることを建築主、建築家の双方ともに恐れたため、可能な限り名は伏せられた[7]

アーキテクトの地位が確立したのはルネサンス期以降で、アーキテクトの名前が作品とともに伝えられるようになった。15世紀イタリアブルネレスキがアーキテクトの始めとされる。当時、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)に世界最大のドーム屋根をかけることが課題となっていたが、巨大な足場が必要になるため、建設は非常に困難と見られていた。ブルネレスキはこの課題に合理的な解決をもたらし、足場を築かずにドームを造る方法を提案して、ドームを完成させた。また、万能の天才といわれた人文主義者アルベルティは『建築論』を著し、学問的に建築学を位置づけた。これらの人物の活動によって、次第に職人とは異なり、高い教養と科学的知識を持つアーキテクトの職能が確立していった。イタリアなど南欧諸国においては、ルネサンス期以降、アーキテクトは主に社会的な事業に関わる芸術家として尊敬を集めてきた。こうして、アーキテクトが芸術家的意味を帯びるのは15世紀のイタリア・ルネサンスに始まると同時に建築の形態が学問として科学的に解析検討され、芸術としての本性が追求された。アーキテクトは技術者との職分から、学者であり芸術家・デザイナーとしての側面を持つに至る。

日本の場合

日本では伝統的に設計と施工を兼ねる大工棟梁がいた。Architect の概念は、明治時代以降に輸入されたもので、まずは明治政府が雇用したお雇い外国人トーマス・ウォートルスジョサイア・コンドルらが活躍した。次いで旧官立大学を中心に西欧の建築学が導入された。

Architecture は当初「造家」と訳され、1886年に工部大学校卒業生を中心に「造家学会」が設立された。やがて伊東忠太による提案を受け、1897年に建築学会(現・日本建築学会)と改称した。伊東は、「造家」では技術的な要素が強すぎるので、芸術的な要素を強調するため「建築」という名称を主張したものであったが、すでに明治6年に発行された英和辞書でconstructionを「建築術なり」と称していた。

これに対する反発として、大正時代に日本建築士会と関西建築協会(現・日本建築協会)が結成された。日本建築士会は設計と施工の分離を主張し、西欧の Architect に相当する地位を確立すべく、「建築士法」制定運動を起こした。1925年に「建築士法」案が議会に提出されたが、建築界全体の足並みがそろわず、成立を見なかった。

大学建築学教育を行ないながら、実際の設計に関わるものをプロフェッサー(教授)アーキテクトという。これは世界各国の建築学校で一般的なスタイルであり、また実務に長けた人物を教授に招聘するのも非常に多く行われている。単なる理論のみでなく実務に関わることは研究上・教育上も必要であり、学生に設計実務を示すことができるなどがあるとされる。

国際

日本

他国

  1. ^ オンライン語源辞典 www.etymonline.com
  2. ^ イタリアルネッサンスの建築 Jacob Burckhardt ISBN 0-8052-1082-2
  3. ^ 管理者。"土木工学の定義 - 土木工学の定義と歴史 - smweng.com" www.smweng.com
  4. ^ a b c d Pacey、Arnold(2007)中世の建築画 Stroud:Tempus Publishing。pp。225-227。ISBN 978-0-7524-4404-8
  5. ^ 鈴木博之(2003)『都市のかなしみ: 建築百年のかたち』224ページ。222ページでは一般には建築を設計する人々が社会では建築家と呼ばれることが多いとしており、「小説の主人公になって不倫に走ったりするのはどういうわけか建築家であって建築士ではない」と紹介している。
  6. ^ [totallyhistory.com/filippo-brunelleschi&usg=ALkJrhgegZimFhkc7_tY-Hl4F-lB4QTnGg Filippo Brunelleschi]、完全な歴史
  7. ^ アラン・エルランド=ブランダンブルグ著 山田美明訳『大聖堂ものがたり』創元社 <「知の再発見」双書>、2008年、ISBN 9784422211961 pp.42-60.

Copyright