第二次世界大戦

第二次世界大戦
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左上:万家嶺の戦い
右上:第一次エル・アラメイン会戦
左中央:スターリングラード攻防戦
右中央:東部戦線におけるシュトゥーカ急降下爆撃機
左下:ドイツの降伏文書英語版に署名するドイツ元帥ヴィルヘルム・カイテル
右下:リンガエン湾侵攻英語版
戦争:第二次世界大戦
年月日:1939年9月1日 - 1945年9月2日
場所ヨーロッパアジア太平洋北アメリカアフリカ
結果連合国の勝利
交戦勢力
連合国 枢軸国
指導者・指揮官
イギリスの旗 ジョージ6世
イギリスの旗 ネヴィル・チェンバレン (-1940)
イギリスの旗 ウィンストン・チャーチル (1940-1945)
イギリスの旗 クレメント・アトリー (1945)
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン
フランスの旗 アルベール・ルブラン (-1940)
自由フランスの旗 シャルル・ド・ゴール (1940-)
ポーランドの旗 ヴワディスワフ・シコルスキ
中華民国の旗 蔣介石
アメリカ合衆国の旗 フランクリン・D・ルーズベルト (1941-1945)
アメリカ合衆国の旗 ハリー・S・トルーマン (1945)
オーストラリアの旗 ロバート・メンジーズ
オーストラリアの旗 ジョン・カーティン
カナダの旗 ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング
イギリス領インド帝国の旗 第2代リンリスゴー侯爵 (-1943)
イギリス領インド帝国の旗 初代ウェーヴェル子爵 (1943-)
ブラジルの旗 ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス
(1942-1945)
タイ王国の旗 クアン・アパイウォン (1945-)
ナチス・ドイツの旗 アドルフ・ヒトラー (1939-1945)
ナチス・ドイツの旗 カール・デーニッツ (1945)
イタリア王国の旗 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
イタリア王国の旗 ベニート・ムッソリーニ
大日本帝国の旗 昭和天皇
大日本帝国の旗 東條英機 (-1944)
大日本帝国の旗 小磯國昭 (1944-1945)
大日本帝国の旗 鈴木貫太郎 (1945)
ルーマニア王国の旗 イオン・アントネスク
ハンガリーの旗 ホルティ・ミクローシュ
ブルガリアの旗 ボリス3世 (1941-1943)
ブルガリアの旗 キリル (1943-1945)
フィンランドの旗 リスト・リュティ
タイ王国の旗 ラーマ8世
タイ王国の旗 プレーク・ピブーンソンクラーム

イラク王国の旗 ファイサル2世
フランスの旗 フィリップ・ペタン
満州国の旗 愛新覚羅溥儀(康徳帝)

損害
死者
軍人1700万人
民間人3300万人
(諸説有り)
死者
軍人800万人
民間人400万人
(諸説有り)
第二次世界大戦

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、: World War II、略称:WWII)は、1939年から1945年までの6年余りにわたって、大日本帝国ドイツイタリア日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリスソビエト連邦フランスポーランド中華民国オランダベルギーアメリカ合衆国オーストラリアブラジルギリシャやそれらの植民地などの連合国陣営との間で戦われた戦争で、第一次世界大戦以来の世界大戦となった。

1939年8月23日独ソ不可侵条約と付属の秘密議定書に基づいた、1939年9月1日に始まったドイツ軍によるポーランド侵攻と同年9月17日ソビエト連邦によるポーランド侵攻が発端であり、欧州議会で「ナチスとソ連という2つの全体主義体制による密約が大戦に道を開いた」とする決議が採択されている[1]。そしてイギリス・フランスによるドイツへの宣戦布告により、ヨーロッパは戦場と化した。その後日本の1941年12月8日マレー作戦による英・蘭の東南アジア植民地地域への攻撃によるイギリスやオランダとの開戦と、同日に続くアメリカへの真珠湾攻撃と宣戦布告による、いわゆる太平洋戦争開戦によって、交戦地域は全世界に拡大し、人類史上最大の戦争となった。この戦争は当初、枢軸国軍が優勢を保ったが連合国軍が反攻に転じ、枢軸国陣営で最後まで抗戦していた日本が1945年9月2日に降伏文書に調印したことで、終結した。また、現時点では核兵器原子爆弾)が実戦投入された史上唯一の戦争である。

参戦した国

枢軸国とは1940年に成立した三国同盟に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。一方、連合国とは枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。また、日本と中華民国のように、第二次世界大戦前より戦争状態(1937年に始まった日中戦争。アメリカも義勇軍という形で事実上参戦していた)を継続している国もあった。

全ての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わないこともあった。しかし1943年にイタリアが降伏し、大戦末期の1945年には、占領地を除いた国家の大部分が連合国側に立って参戦した。

枢軸国の中核となったのは参戦順に日本、ドイツ、イタリアの3か国で、連合国の中核となったのは中華民国、ソビエト連邦、イギリス、フランス、アメリカ合衆国の5か国である。また、イタリアなどのように、連合国に降伏した後、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらは共同参戦国と呼ばれ、連合国の一員とは見なされなかった。

戦域

第二次世界大戦の戦域は、ヨーロッパ北アフリカ西アジアの一帯(欧州戦線)と、東アジア東南アジア太平洋北アメリカオセアニアインド洋・東南アフリカ全域の一帯(太平洋戦線)に大別される。

欧州戦線ではドイツ、イタリアなどを中心にイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いが、太平洋戦線では日本などを中心にイギリス、アメリカ、中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなどとの戦いが繰り広げられた。

欧州戦線はドイツやイタリアを中心とした枢軸国とイギリス、フランス、オランダ、ベルギー、カナダ、アメリカ、ブラジルなどが戦った西部戦線および北アフリカ戦線と、同じくドイツやイタリアを中心とした枢軸国とソ連が戦った東部戦線(独ソ戦)に分けられる。

太平洋戦線は連合国により太平洋戦争と呼称され(日本側の呼称は「大東亜戦争」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカ、ニュージーランドなどが太平洋の島々とアラスカやハワイを含むアメリカやその領土のフィリピン、カナダなどで戦った太平洋戦域英語版オランダ領東インドイギリス領マラヤフランス領インドシナなどで日本とオランダ、イギリス、アメリカ、フランスなどが戦った南西太平洋戦域英語版、イギリス領ビルマやイギリス領インド帝国イギリス領セイロンやフランス領東アフリカで日本がイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどと戦った東南アジア戦域英語版、そして中国大陸などで日本や満州国が中華民国とアメリカ、イギリスなどと戦った日中戦争に分けられる。

しかし、これら以外に中東南米中米カリブ海アリューシャン列島アラスカなどでも枢軸国と連合軍の戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的、物的資源の全面的な動員、投入が行われた。当時の独立国のほとんどである世界61か国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。

比較

第一次世界大戦と比較すると、ともに総力戦ではあったが相違もあった。第一次世界大戦は塹壕戦とケーブル切断、戦艦を主体に展開されたが、第二次世界大戦では無線通信空母を用いた機動戦の結果、戦線が拡大した。また、無線は電信と違い敵に傍受されるため、暗号による作戦伝達や、その解読による戦果がもたらされた[2]

使用された兵器には、著しく発達した航空機戦車潜水艦などに加え、レーダージェット機、長距離ロケットなどの新兵器、さらに原子爆弾つまり核兵器という大量破壊兵器がある。

総力戦も第一次世界大戦より徹底され、この戦争では主に航空機の進化により戦場と銃後の区別がなくなり、民間人が住む都市への大規模な爆撃人類史上初の原子爆弾投下により、多くの民間人や捕虜が命を失った。またドイツは、戦争と並行して、自国および占領地でユダヤ人ロマ障害者の組織的大量虐殺を進めた。これはホロコーストと呼ばれる。これらによる大戦中の民間人の死者は、総数約5500万人の半分以上の約3000万人に達した。

また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部東ヨーロッパから1200万人のドイツ人が追放され[3]、その途上で200万人が死亡している[3]。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制収容が行われた。またアジア、太平洋、オセアニア、アメリカなどでは日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた

戦後

戦争中から連合国では、国際連合の設立など戦後の秩序作りが協議されていた。戦場となったヨーロッパと日本では戦後の国力は著しく低下しており、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出して大きくなった。この両国は戦後世界に台頭する超大国となり、覇権争いで対立し、その対立は1990年代に至るまでの長い間冷戦構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。

第二次世界大戦の結果により、アジア、アフリカ、中東、太平洋諸国で欧州の植民地であった地域では、白人諸国家に対する民族自決そして独立の機運が高まり、大戦終結後数年から十数年後に多くの国々が独立した。その結果、大航海時代以来の欧州列強の地位は著しく低下した。

こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦中の対立を乗り越え、さらに冷戦を超えて欧州統合の機運が高まった。

冬戦争、1939年。タイペレでマキシム機関銃を構えるフィンランド軍兵士(フィンランド軍司令部写真センター)。

1939年9月1日早朝 (CEST)、ドイツ国独立スロバキアポーランドへ侵攻。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もドイツの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。ソ連はこの侵略行為を非難され、国際連盟から除名された。

1940年3月に、ソ連はフィンランドからカレリア地峡などを割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはデンマークノルウェーベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐した。さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行ったが、大損害を被り(バトル・オブ・ブリテン)、その結果9月にヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始める。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。

1941年にドイツ軍はユーゴスラビア王国やギリシャ王国などバルカン半島、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻した。6月にドイツはソ連への侵攻を開始した(独ソ戦)。これによりドイツによる戦いは東方にも広がったため、戦争はより激しく凄惨な様相となった。日中戦争で4年間戦い続けていた日本は、12月8日午前1時(日本時間)にイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカのハワイも奇襲し(真珠湾攻撃)大勝利を収める。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、世界大戦となる。日本軍は12月中に早くもイギリスの植民地の香港やアメリカのグアムを瞬く間に占領し、アメリカ西海岸で通商破壊戦を開始した。

1942年に入っても戦勝を続ける日本軍は、イギリスの植民地のマレー半島一帯やビルマ、オランダ領東インド、アメリカの植民地のフィリピンを占領した。さらに日本軍による本土への空襲や砲撃を数度に渡り受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本陸軍上陸対策を検討するほどになった。同時期のドイツはロストフの戦いモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。しかし日本軍は勢いを増しインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカル島まで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。日本軍は6月にミッドウェー海戦で敗北するものの、同月にアリューシャン列島ダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島キスカ島を占領しアメリカ領を初占領した。9月にアメリカ本土への空襲を数回にわたり行うなど勢いを増した上に、アメリカ海軍も各地で日本軍との戦いで敗北を続け、年末には稼働空母が皆無になるなど各地で勝ち進んだ。

1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、また各地でイギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、中盤になるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。またインド洋では日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍の共同作戦が活発になるが、イタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。ヨーロッパ戦線においては同年には枢軸国が完全に劣勢となり、ドイツは2月にスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄。1943年7月に敗色が濃い中イタリアのベニート・ムッソリーニは失脚し、連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国(サロ政権)が北イタリアを支配する状況になる。また日本軍はガダルカナル島の戦い[4]で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて延び切ったため、同年後半には勢いを失い以降劣勢となり、日本軍はついに11月にオーストラリア本土への空襲を中止する。

1944年にイギリス軍が日本軍にビルマでインパール作戦に勝利し、イギリス領インド帝国への侵略を阻止した。6月に行われたマリアナ沖海戦でアメリカ軍が勝利するなど連合軍の勢いがさらに増した。これに対し7月に日本陸軍が中華民国軍とアメリカ軍に対して中華民国内で行った大陸打通作戦でかつてない大勝利を収めたが、大勢には変わりなかった。ヨーロッパの連合軍はついにフランスに上陸し、マーケット・ガーデン作戦など勝利を重ねオランダ、ベルギーなどを開放した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では8月のサイパン島陥落後、日本本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となる。10月に行われたレイテ沖海戦で日本海軍は大敗北を喫するなど勢いは完全に連合軍に傾いた。冬にはアメリカ軍によるフィリピンへの再上陸と、小規模ながら日本本土への空襲が始まった。

1945年初頭に日本軍はフランス領インドシナに侵攻し(明号作戦)これに成功したが、もはや劣勢を変えるには至らなかった。連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、同政権は崩壊しイタリア社会共和国も崩壊、ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏しヨーロッパ戦争は終結した。日本も5月以降連日アメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権をほぼ失った。さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし6月の沖縄戦で初めて国土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態にようやく同10日からの御前会議降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾。15日に玉音放送で降伏を全国民に伝える。連合国は多くの将兵や武器を残した日本への上陸を慎重に進め、降伏から2週間後の28日に初上陸し、9月2日に降伏文書に両軍が調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。

ヴェルサイユ体制とドイツの賠償金

ヴェルサイユ条約の調印

1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約であるヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日に同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領域の一部を喪失し、それらは民族自決主義の下で誕生したポーランドチェコスロバキアリトアニアなどの領域に組み込まれた。

しかしそれらの領土では多数のドイツ系人種が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土は全て没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約により巨額の賠償金が課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとなった[5]

1921年、賠償の総額が1320億金マルクに定められたが、連合国の専門家にはそれがドイツにとって到底払える額ではないことは最初から分かっていた。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は「空中の楼閣」とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して「最終的には全額支払われる」と信じ込ませることだった。そのため実際には500億金マルク(125億米ドル)が「連合国が考えるドイツが実際に支払える金額」であり、実際に支払われるべき「ドイツの賠償金の総額」であった[要出典]

1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると[6]1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行[6]。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した[7]。これによりハイパーインフレが発生し、軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた[6]。その結果、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落、ミュンヘン一揆などの反乱が発生した。

国際連盟設立

1930年、 スイスジュネーヴにて開催の 国際連盟議会

第一次世界大戦の戦勝国のイギリスフランス大日本帝国イタリア王国といった列強が、常設理事会の常任理事国となり1920年に国際連盟が作られた。講和会議後に締結されたヴェルサイユ条約サン=ジェルマン条約トリアノン条約ヌイイ条約セーヴル条約の第1編は国際連盟規約となっており、これらの条約批准によって連盟は成立した。

戦勝国は現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、戦勝国のアメリカの当初の不参加や、新興国のソビエト連邦や敗戦国のドイツの加盟拒否によってその基盤が当初から十分なものではなく、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。

モンロー主義の動揺

ウィリアム・ボーラヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資を共にしてフランスとの関係が深まった。

そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、主にカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、限時法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。

欧州大陸でのドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。

共産主義の台頭

ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これの阻止を狙った欧米列強シベリア出兵などで干渉したが失敗した[8]ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1,450万人が命を落とし(ホロドモール[9]、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務人民委員部 (NKVD) と改称され、ソ連国内とその衛星国大粛清を行い数百万人を処刑した。

旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴル傀儡政権モンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦支那事変等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばす。

ヴェルサイユ体制下の安定

戦勝国のイタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気により政情が不安定化した。このような状況でイギリスの支援[10]により勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。しかしこの頃のムッソリーニとファシズム体制は、イギリスやアメリカなどでも「新しい流れ」だと期待され、チャーチルさえも大いに絶賛した。

同じく戦勝国の日本では議会制民主主義化が進み、1918年9月、日本で初めての本格的な政党内閣である原内閣が組織された。「平民宰相」と呼ばれた原敬は1921年に暗殺されたが、その後1922年に日本はワシントン海軍軍縮条約に調印し、1923年には、四カ国条約の成立に伴い日英同盟が発展的解消された。1925年にはアジアで初の普通選挙制度が導入された。政党政治の下で議会制民主主義化が根付き、「大正デモクラシー」の興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となり、このまま議会制民主主義が浸透していくかに見えた。

一方、敗戦国のドイツでは、破滅の底に落ちたドイツ経済はルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、戦勝国のアメリカやイギリスなどの資本も入り、一応は平静を取り戻し相対的安定期に入った。1925年にロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。

世界恐慌

大暴落直後の ニューヨーク証券取引所(1929年)

しかし、1929年10月24日から起きた一連のニューヨーク証券取引所ウォール街から世界に広がった大暴落を端緒とする世界恐慌は、このような世界の状況を一変させた。

ニューヨーク証券取引所1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多かった。アメリカは1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。また1920年代後半に続いた投機ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金までするという状況であった。しかしこの頃には生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれた。

世界恐慌を受けて英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中頃になってからであり、それまでに資金が世界中から引き上げられ、1929年から1932年の間に世界の国内総生産は推定15%減少し、アメリカの失業率は23%に上昇し、一部の国では33%にまで上昇した。恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴となった。

ファシズムの選択

第二次エチオピア戦争で戦うイタリア陸軍砲兵

列強のうち植民地を持っていなかった国では、世界恐慌のあおりを受けて、植民地を獲得すべく海外へ侵攻し、軍事独裁政権への移行が見られるようになる。

ファシスト党ムッソリーニ率いるイタリアは、1935年に植民地を獲得すべくエチオピアに侵攻し、短期間の戦闘をもって全土を占領した。敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスでエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。対して全土を占領したイタリアは、イタリア王兼アルバニア王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国させた。結果として国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われた事例だが、イタリアに対して実効的ではなかった。第二次エチオピア戦争でエチオピア帝国に侵攻したイタリア王国は1937年に国際連盟を脱退した。

金解禁によるデフレ政策を採っていた日本の状況も深刻だった。大恐慌により失業者が激増した(昭和恐慌)。さらに黄禍論が渦巻くアメリカへの移民は禁止されるなど、世界恐慌による打撃を受けてしまう。そのような中で、イタリアやドイツ同様解決策を海外へと向けた日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ1932年(昭和7年)3月1日満州国を建国した。満州国を主導する関東軍は陸軍中枢の言うことを聞かずなすがままにされた。翌年には国際連盟を脱退、さらに日中戦争が勃発するなど軍の暴走が止まらず、中華民国に利権を持つイギリスやアメリカからも大きな反発を食らった。

五・一五事件を伝える新聞

さらに既存の政党政治や議会制民主主義に不満を持つ軍部の一部が起こした「五・一五事件」や「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰された。これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、近衛文麿政権とともに政党政治を基にした議会制民主主義がわずか20年にも満たないまま終焉を迎える。

政治集会における アドルフ・ヒトラー(1930年10月、 ヴァイマルにて)

総額が1,320億金マルクと、到底支払うことができないと思われた第一次世界大戦の賠償金の支払いを続けながら、アメリカの資金で潤っていたドイツでも失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、つまり大恐慌下においても第一次世界大戦の莫大な賠償金の支払いを続けることに対する反発と、さらに反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた[11]アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1932年、その時点でのドイツの支払い額は205.98億金マルクに過ぎなかったが、国際社会の援助により、賠償金の支払いはようやく一時停止されることとなった。

1933年1月にナチ党は、民主的選挙でドイツ国民の圧倒的な支持を得て政権獲得に成功。ナチ党はその後全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。英仏米など列強は圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦を牽制する役割をナチス政権下のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整え始めた。イギリスはドイツと英独海軍協定英語版を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にラインラント進駐を強行。これによりロカルノ条約は崩壊した。

日本、ドイツ、イタリアは、イギリスやフランス、アメリカなどと違い、莫大な富と雇用を生み出す植民地をほとんど持たず、国際連盟を脱退または国際連盟からの経済制裁を浴びることとなり、孤立し、共通点を持つ3国は急接近を始める。

宥和政策とその破綻

1938年9月29日、 ミュンヘン会談にて署名直前に撮影された、 チェンバレンダラディエヒトラームッソリーニおよび チャーノ

これらに対し国際連盟は効果ある対策を採れず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年に日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。

ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝によりオーストリアを併合。次いでチェコスロバキアズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。

しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。

勃発直前

1939年、 独ソ不可侵条約に署名するドイツの リッベントロップ外務大臣。背後に立つのは、 ヴャチェスラフ・モロトフおよび ヨシフ・スターリン

ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。

4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約 (en) を結ぶことでこれに対抗した。

1939年夏、アメリカローズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ドイツがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した[12]

独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国フィンランドカレリアルーマニアベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。

1939年9月1日、 ポーランドおよび 自由都市ダンツィヒの国境検問所を取り壊す ドイツ国防軍
1939年9月、 ポーランド侵攻時の ブィドゴシュチュ付近におけるドイツの I号戦車

1939年9月1日ドイツ国軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスではチェンバレン首相がベルリンの大使館経由で呼びかけたものの、ヒトラーからの返事がないことを理由に、またフランス9月3日にドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため国際連盟から非難・除名されたが[13]1940年3月にフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国に1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。

ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日にドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月にドイツ空軍機がイギリス本土空爆を開始したが、航空戦バトル・オブ・ブリテン)で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。

1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月、北アフリカ戦線でドイツ・イタリア両軍が敗北。9月にイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。

1944年6月にフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。

1939年

ワルシャワを守るポーランド兵士(1939年9月)

9月1日早朝 (CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。

ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。

ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。

ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ不可侵条約秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻カーゾン線まで達した。

一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。

フランスに進駐した イギリス陸軍(1939年10月)

一方ヒトラーも、英国ネヴィル・チェンバレン首相と仏国エドゥアール・ダラディエ首相はそれまで宥和政策を行っていたため、宣戦布告してくるとは想定していなかった。開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「まやかし戦争」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍を視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。

1939年、ドイツおよびソ連の 東ヨーロッパにおける新領土併合後に握手する両国の陸軍将校

国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までにポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人ゲットーへの強制収容が始まった。

ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵が殺害され(カティンの森事件)、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害または国外追放された。

ポーランド分割直後の10月6日、ヒトラーは国会演説で「平和の提案」と「ヨーロッパの安全」という表現を用いて英仏両国に和平提案を行い、これ以降も両国へ和平工作が何度もなされたが、両国が要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れず[14]、和平を模索する反面、ポーランドの未来は独ソ両国によって決定されるという見解を示した。

ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年春まで西部戦線に大きな戦闘は起こらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリスは軍隊をフランスに派遣したものの、国民の間に「クリスマスまでには停戦するだろう」という根拠のない期待が広まった。

11月8日、ミュンヘンビアホールビュルガーブロイケラー」で爆発があり、家具職人ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了し難を逃れた。その後も国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画が何回か計画されたが、全て失敗に終わった。

ソ連はバルト三国およびフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。

スキーに銃を構えるフィンランド陸軍(1939年12月)

しかし、フィンランドはソ連の基地使用およびカレリア地方割譲等の要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日にフィンランド侵攻(冬戦争)を開始した。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。

1940年

2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始し、フィンランド軍の防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。

さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニア王国ベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコヴィナ北部に侵入し、領土を割譲させた。

ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており[注釈 1]、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本の杉原千畝領事に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。杉原の発行したビザを持って日本に渡ったユダヤ難民の総数は約4,500人で、1940年7月から日本に入国し、1941年9月には全員出国した。

なお、杉原同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山[15]や、在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデス[16]がおり、ともに戦後のイスラエル諸国民の中の正義の人に認定されている。

デンマークの オーベンローを侵攻するドイツ軍の I号戦車(1940年4月9日)

4月、ドイツは中立国デンマークノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。脆弱なドイツ海軍はノルウェー侵攻で多数の水上艦艇を失った。

ベルギー西部を進むドイツ軍戦車(1940年5月)

5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーオランダルクセンブルクベネルクス三国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアのオランダ植民地は亡命政府に準じて連合国側につくこととなり、オランダ植民地に住むドイツ人は抑留され、外交官と婦女子のみが解放されドイツの同盟国の日本に送られた。同じ日、イギリスではウィンストン・チャーチルが首相に就任し、戦時挙国一致内閣が成立した。

ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線を迂回。侵攻不可能といわれていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻)、フランス・イギリスの連合軍をイギリス海峡に面するダンケルクへ追い詰めた(ダンケルクの戦い)。ここで、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開する。急遽860隻の船舶を手配し、ドイツ軍は消耗した機甲師団を温存し救出作戦に投入しなかったため、イギリス空軍の活躍により多くの兵器類は放棄したものの、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)を9日間でフランスのダンケルクから救出し、精鋭部隊を撤退させることに成功した。この作戦では様々な貨物船、漁船、遊覧船および王立救命艇協会の救命艇など、民間の船が緊急徴用され、兵を浜から沖で待つ大型船(主に大型の駆逐艦)へ運んだ。イギリスのチャーチル首相はのちに出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中でもっとも成功した作戦であった」と記述している。

凱旋門を通るドイツ軍(1940年6月14日)

さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しかできず、6月10日にはパリを戦火から守るべく無防備都市宣言をした。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見たイタリアのムッソリーニも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりにイギリスとフランスに対し宣戦布告。6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言を行ったことで、戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した[注釈 2]

その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーがパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国。その後、ドイツはフランス全土を占領し、その直後に講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立される。

これに対抗してフランス人の手でフランスを取り戻すべく、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールは「自由フランス国民委員会」を組織し、ロンドンBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取りつけてフランス国内のレジスタンス運動を支援した。

なお、フランス主要植民地のアルジェリアモロッコインドシナマダガスカルなどはヴィシー政権につき、それぞれドイツ軍や日本軍との友好関係や軍の駐留を引き受けた。

7月3日、フランス領アルジェリアがドイツ側の戦力になることを防ぐため、イギリス海軍H部隊メルス・エル・ケビールに停泊していたフランス海軍艦船を攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。にもかかわらず、多数の艦艇が破壊され、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月にフランス領西アフリカダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。

1940年12月29日、ドイツによる ザ・ブリッツ後の ロンドン

西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指した。イギリスは降伏勧告に近い和平案に対する回答を延ばすことで時間を稼いだ。その間、イギリス特有の悪天候によりドイツ空軍の港湾や船団への攻撃は低調に終わった。しかし、7月16日にヒトラーはイギリス本土上陸作戦の準備を命じ、22日に行われたイギリスの国会演説で和平案が拒否されると、ドイツ空軍は海上封鎖に本腰を入れた。同月25日のイギリス海軍駆逐艦が護衛する輸送船団への攻撃では10隻近い艦船が被害を受け、イギリスは夜間を除いて船団の海峡通行を禁止した。

上陸作戦「ゼーレーヴェ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日に、本格的に対イギリス航空戦を開始するよう指令(ザ・ブリッツ)。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて疎開を実施した。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。

イギリス空軍は、スーパーマリン スピットファイアホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケル He 111ユンカース Ju 88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃目標を変更した。しかし、メッサーシュミット Bf 109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始めた。

参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島アルバニアからギリシャへ侵攻した(ギリシャ・イタリア戦争)。しかし性急で準備も不十分なままであり、11月にイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有様であった。

9月27日、ドイツ、イタリア、日本は日独伊三国同盟を結んでいる。また第二次ウィーン裁定によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。

1941年

1941年8月、 北アフリカ戦線トブルク包囲戦の前線の塹壕を受け持つ イギリス連邦軍オーストラリアの部隊

イギリスはイベリア半島先端の植民地[注釈 3]ジブラルタルと、北アフリカエジプトアレクサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島キプロスなど東地中海[注釈 4]を確保し反撃を企図していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。

一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍を支援するため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日に撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され、翌年1月6日にはエル・アゲイラ英語版まで撤退する。

中立国のアメリカは3月11日レンドリース法を成立させ、自らは参戦しない代わりに、ドイツや日本、イタリアとの交戦国に対して、ソ連イギリス中華民国などへの大規模軍事支援を開始する。

4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国ユーゴスラビア侵攻)やギリシャ王国などバルカン半島バルカン戦線)、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。またこの間にハンガリー王国ブルガリア王国ルーマニア王国を枢軸国に加えた。

ソ連内に攻め入るドイツ軍の戦車

6月22日、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、イタリアハンガリールーマニア等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始し、独ソ戦が始まった[注釈 5]。冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは6月26日、ソ連に宣戦布告した(継続戦争)。開戦当初、赤軍(当時のソ連地上軍の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。歴史的に反共感情が強かったウクライナバルト三国等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊に志願した。また、西ヨーロッパからもフランス義勇軍 (fr) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。

反撃に備えるソ連軍(1941年12月1日)

ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、そのためソ連政府の一部は約960km離れたクイビシェフへ疎開した。ドイツ軍は急速に侵攻していたが、秋の雨の時期から泥まみれの悪路に悩まされ、補給も滞り、進撃の速度が緩んだ。また戦場に出現したソ連軍の新型T-34中戦車KV-1重戦車や、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。そして冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。その厳寒の中、ドイツ軍は11月半ばにモスクワへの進攻を再開し、近郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退し、第二次世界大戦勃発以来、ドイツ軍はかつてない深刻な敗北を喫した。

イランに攻め入るイギリス陸軍の戦車(1941年8月)

8月9日、イギリス・アメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章を発表した。8月25日、ソ連・イギリスの連合軍は中立国イランに南北から進撃し、占領した(イラン進駐)。イラン国王は中立国アメリカに英ソ両軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、ルーズベルト大統領は拒否した。ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、英・米両国はソ連と距離を置いていたが、独ソ戦開始後は、ヒトラーのナチス・ドイツ打倒のため、ソ連を連合国側に受け入れることを決定。イランを占領しペルシア回廊を確保した上で、アメリカの武器貸与法に基づき、ソ連へ大規模軍事援助を行うことになった。

一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の4月13日に日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。ソ連は日本に送り込んだリヒャルト・ゾルゲら、スパイの情報から日本の動向を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。

ドイツの占領地では、秘密国家警察ゲシュタポナチス親衛隊が住民を監視し、ユダヤ人レジスタンス関係者へ過酷な恐怖政治を行った。特に独ソ開始後、アインザッツグルッペンと呼ばれる特別行動部隊による大量殺人で犠牲者数が激増した。それを見聞きした国防軍関係者の中には、反ナチスの軍人が増えていく。ヒトラーも軍の作戦に細かく干渉し、司令官を解任した。そのため軍部の中でヒトラー暗殺計画を企てるなど、ドイツの戦時体制は決して一枚岩でなかった。

12月7日(現地時間)、日本軍がマレー半島のイギリス軍を攻撃し(マレー作戦)ここに太平洋戦争大東亜戦争)が勃発した。またマレー半島を攻撃した数時間後に、日本軍はアメリカのハワイにある真珠湾のアメリカ海軍の基地を攻撃した。これに対し12月8日にアメリカとオランダ日本に宣戦を布告[17]。日本の参戦に呼応して12月11日、ドイツ、イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実共に世界大戦となった。

1942年

第二次世界大戦のヨーロッパ戦域の動画
サロニキで集められるユダヤ人(1942年5月)

1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーにナチス党の重要幹部が集結し「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議が行われた。これ以後、ワルシャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウトレブリンカダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス室を使って大量殺戮を実行した。

ドイツのみならず、ドイツの占領下のポーランドやチェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、アルバニア、フランス、オランダ、ベルギー、ギリシア、ノルウェーのみならずイタリアでも行われた大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の強力な支持または黙認の元に継続された。最終的に、上記の地域におけるホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人同性愛者、精神障害者、政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、6百万人に達するといわれている。

また、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領からの圧力を受けて、ブラジルは1942年1月に連合国として参戦することを決定し、ドイツやイタリア、日本との間に参戦したが、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ヨーロッパ戦線に参戦した。なおドイツやイタリア、スペインと友好関係を保っていたアルゼンチンは中立を保った。

北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、1月20日に再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領。同23日にエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100kmのエル・アラメインに達した。しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。10月23日に開始されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。

同盟国イタリア軍は終始頼りなく、欧州戦域を事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見ることとなる。さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。

さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領(アントン作戦)した。

ディエゴ・スアレス湾での英艦ラミリ―ズ(1942年5月)

イギリス軍は、ヴィシー政権の植民地であるアフリカ沖のマダガスカル島を、南アフリカ軍の支援を受けて占領した。これに対しドイツからの依頼もありインド洋からイギリス海軍を駆逐した日本軍は、5月にマダガスカル島へ進出、日本軍の特殊潜航艇がディエゴ・スアレス港を攻撃、イギリスのタンカー1隻を撃沈、イギリス海軍の戦艦を1隻大破し、さらに上陸した日本軍兵士が陸戦を行いイギリス軍兵士を死傷するなどの戦果を上げている。しかしアフリカはドイツ軍の作戦範疇であったため、日本軍はこれ以上の攻撃は避けている。

ドイツ海軍カール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋や東南アジアにまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた(